藤原氏の軌跡を辿る 〜不比等と藤原4兄弟〜
「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」
藤原道長が詠んだ有名な句ですね。
意味はだいたいこんな感じ。
「この世の中は僕のもので、何も足りないものはないよ〜ん」
これやばくないですか?
ただの臣下がこの世は自分のものだなんて言えるでしょうか?
やっぱ道長ってすげーなぁーって思うんです。
でもすごいのは道長だけじゃあない。
ときにはゲスな手を使ってライバルを蹴落としながらも栄光を築き上げてきた
その集大成が道長のあの歌だと言えると思うんです。
本日はそんな藤原氏がいかに権力を得、貴族の頂点に君臨するに至ったか、
それをご紹介したいと思います。
さて、話は飛鳥時代に遡ります。
645年、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足によって、それまで朝廷を牛耳っていた蘇我入鹿が暗殺されました。
「虫殺し」なんていう風に覚えた大化の改新が始まるわけです。
ちなみに蘇我入鹿暗殺事件には、「乙巳(いっし)の変」っていうかっこいい名前がついています。
そしてめちゃくちゃ重宝されます。
それが「藤原」
藤原氏の歴史はここにはじまるんですね。
鎌足の亡き後、藤原氏の栄華の礎を築いたのが鎌足の息子・不比等くん。
娘の宮子を文武天皇に嫁がせ、さらにその間に生まれた聖武天皇にもう1人の娘・光明子を嫁がせました。
藤原氏は昔っからおんなじことしてるんですね。
さて、不比等には4人の息子がいました。
上から順に武智麻呂、房前、宇合、麻呂。
合わせて藤原四兄弟とか呼ばれる人たちです。
この4人から藤原四家っていう4つの家が生まれました。
それも書いておくと、南家、北家、式家、京家。
ちなみに道長は北家の人ね。
長屋王は不比等亡き後の政治を主導していく重要な立場にあった人です。
何より血筋が素晴らしい。
この人、天武天皇のお孫さん。
しかも奥さんは第43代元明天皇の娘。
めっちゃ手強い。
当然藤原氏にとってはすごく邪魔な人なわけです。
724年にある事件が起こりました。
2月に即位した聖武天皇は、自分の母で不比等の娘である宮子を尊んで、「大夫人」と呼びましょう、という勅令をだします。
非皇族である宮子の権威を高めたかったからです。
長屋王はこれに反発したんです。
だからそれだとおかしいじゃないか、と。
たかが呼び方、されど呼び方。
この事件を辛巳事件(しんしじけん)と呼びます。
宮子は藤原氏の人ですから、この勅令はいわば藤原氏への特別扱いでもあったわけです。
これを撤回されられたわけですから、藤原4兄弟は怒ります。
どうやら天皇、藤原氏と長屋王という対立構造があったらしいんです。
この事件をきっかけに藤原四兄弟と長屋王の対立が露わになりました。
さて、
727年に不比等の娘で聖武天皇の奥さんの光明子が基王(もといおう)を生みました。
でもこの基王、すぐに死んじゃうんです。
聖武天皇もショックだったと思いますが、1番ショックだったのは多分藤原4兄弟じゃないでしょうか。
基王は自分たちの甥にあたるわけですから、基王が天皇になれば大きな権力を得られたはずでした。
基王が死んだ今、次期天皇はおそらくちょっと前に生まれた聖武天皇もう1人の皇子でしょう。
でもこいつは藤原一族には含まれない。
そこで藤原4兄弟は考えます。
「そうだ、光明子を皇后にしちゃえばいいんじゃね?」
皇后は天皇の奥さんの中で1番偉い人です。
もし皇后に息子が生まれれば確実に天皇にできます。
でも皇后に非皇族がなるなんて前例がありません。
長屋王は絶対に反対してくるでしょう。
いよいよ長屋王が藤原氏にとって大きな邪魔者になってきたのです。
そこで事件が起こります。
729年、朝廷にある訴えが起こります。
「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」
これはどういうことかと言えば、具体的には長屋王が基王を呪い殺したってことです。
これを受けて4兄弟の1人藤原宇合が軍勢を率いて長屋王邸を囲みます。
そして長屋王は自害して果てました。
この事件は長屋王の変と呼ばれます。
当然これは藤原氏の陰謀なわけですが、邪魔者はいなくなりました。
以後、藤原氏から皇后がでることがたびたび起こるようになります。
藤原氏が一歩成長したんですね。
こうやって藤原氏は少しずつ成長して強くなっていきます。
続きは次回です。